切られ与三郎のモデルになった4代目伊三郎の墓

芳村伊三郎の名は、江戸長唄の名家で、現代まで襲名され続けています。
4代目伊三郎は、このお寺から南西4キロの清名幸谷の紺屋の中村家の二男として寛政十二年(1800年)に生まれました。名を中村大吉といい若い頃から長唄に親しみ、その美声と男ぶりは近隣でも有名だったようです。
大吉は長じて木更津で型付職人として腕を磨き、年季が明けて清名幸谷に帰り兄の紺屋を手伝けしておりました。

根が好きな長唄を唄うために家から1キロほどの東金と大網の中程の新堀の茶屋に足しげく通っておりました。そこで見そめたのが茂原生まれのきち(お富のモデル)でした。
しかし、きちには近くの堀畑の親分山本源太左衛門という旦那がいたのです。美男美女の間柄はすぐに親分に知られました。若い二人は勝手知った木更津に逃げましたが、子分達に追われ大吉は切り刻まれむしろに巻かれて海に投げ込まれました。しかし、奇跡的に江戸の漁師に助け上げられたのでした。一方きちは連れもどされ、すぐに江戸に売られてしまいました。
後年江戸へ出て唄方となった大吉は、4代目伊三郎を襲名しましたが、若い日の仕打ちで受けた顔から身体中の数十の疵が8代目団十郎の目にとまり、鶴屋南北の門下、三世瀬川如皐に伊三郎、おきちをモデルに人物名、地名などを含め、その筋書きも、おもしろおかしく善玉、悪玉を誇張して書きあげさせました。
それが「お富・与三郎」で知られる歌舞伎狂言 与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)なのです。
5代目伊三郎は、東金の岩崎の秋山嘉吉さん方で、明治十五年に亡くなり、師の墓の隣りにという遺言で、葬儀も当寺で営み、過去帳にも残っております。東金のお祭りのおはやしは、この5代目の長唄の影響を受けた珍しいリズムです。
お墓は当初30メートル先にありましたが戦前、秋の豪雨で崩れました。戦後歌舞伎役者、当市有志のきもいりで、この地点に新しく建てかえられたものです。

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